この『中国の五大小説』上下でとりあげる『三国志演義』(さんごくしえんぎ)『西遊記』(さいゆうき)『水滸伝』(すいこでん)『金瓶梅』(こんぺいばい)『紅楼夢』(こうろうむ)の五篇も、すべて白話(話し言葉)で書かれた長篇小説である。このうち、先の四篇は明代に完成・刊行されたものだが、17世紀前半の明末ごろから「四大奇書」と総称され、白話長篇小説の傑作として高く評価されるようになった。(『中国の五大小説中野美代子
 さてもそのサルめ、山中にて自在にあるくわ、走るわ、跳ぶわ、はねるわ。草や木を食らい、泉や谷川の水を飲み、山の花を採り、木の実を探すなどのいっぽうで、狼と仲間になり、虎と群れをなし、鹿と友だちになり、サルと親戚づきあいをする、夜は崖の下にやすみ、朝は峰の洞窟(どうくつ)のなかであそぶ、といったぐあいです。まこと、「山中に甲子(こよみ)なく、寒さ尽くれども年を知らず」とは、このことでありましょう。(『西遊記中野美代子訳)
 人格神を信仰対象とする宗教全般、とくにその典型であるキリスト教の神概念の本質的な特徴とは、神的な存在が、精神、理性、意思、決意、善意、権能、統合的本性、意識などといった人格的な特性を表わす用語で明確に把握され、表現されるということである。つまり、人間が自分自身のなかで、限られた不十分なかたちで自覚しているような人格的・理性的な要素を神に当てはめて考えるということである(同時に神の場合、前出の人格的な特性を表わす用語はみな、「絶対的な」、つまり「完全な」ものだと考えられている)。(『聖なるもの』オットー:久松英二訳)
 家庭環境がどうあれ、親が優しい人であれ、少々病弱の身であれ、消極的な性格であれ、ともかく学校を出たら、子としては直ちに家を出なければならない。その時期が早いに越したことはない。それができるかどうかに自分の人生のすべてがかかっている。(『人生なんてくそくらえ丸山健二
 もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ。(『自省録』マルクス・アウレーリウス:神谷美恵子訳)
 位置が風景のなかの場所であるように、「できごと」は時空のなかにおける場所である。できごととは、ある場所において、ある時間において起こるものだ。それは空間のなかの位置であると同時に、時間のなかの位置である。このようなできごとの世界――われわれが時空と呼ぶ世界――が四次元的であるのは明らかだろう。できごとの「どこ」を指定する三つの座標をもち、「いつ」を指定するための一つの座標をもっているからだ。(『時空の歩き方 時間論・宇宙論の最前線スティーヴン・ホーキング、キップ・ソーン、リチャード・プライス、イーゴリ・ノヴィコフ、ティモシー・フェリス、アラン・ライトマン:林大訳)
 死ぬこと自体が罰なのではない。その日を待ちつづけてもう4年半になるという事実が罰なのでもない。そうではないのだ。
 真の罰は、日時がわかっているということ。
 未来のいつか、でもなく。歳(とし)をとったら、でもなく。考えずに済むほど遠い、はるか彼方のある日、でもなく。
【はっきりと】、【正確に】、日時がわかっているということ。
 何年、何月、何日、何時。
 自分が呼吸を止める日時。
 なにかに触れることも、においをかぐことも、見ることも、聞くこともなくなる日時。
 無になる日時。
 ある決められた日時に死ぬと宣告されることの恐ろしさは、体験した者にしかわからない。
 普通の人々が、死という概念に曲がりなりにも耐えることができているのは、知らないからだ。知らないがゆえに、考えずに済んでいるからだ。
 が、彼は知っている。
 彼は知っている。7ヵ月、2週間、1日、23時間47分後、自分がこの世からいなくなることを。
 正確に。
(『死刑囚』アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレム:ヘレンハルメ美穂訳)