プライドを与えてやれ。そうすれば、人びとはパンと水だけで生き、自分たちの搾取者をたたえ、彼らのために死をも厭わないだろう。自己放棄とは一種の物々交換である。われわれは、人間の尊厳の感覚、判断力、道徳的・審美的感覚を、プライドと引き換えに放棄する。自由であることにプライドを感じれば、われわれは自由のために命を投げ出すだろう。指導者との一体化にプライドを見出だせば、ナポレオンヒトラースターリンのような指導者に平身低頭し、彼のために死ぬ覚悟を決めるだろう。もし苦しみに栄誉があるならば、われわれは、隠された財宝を探すように殉教への道を探求するだろう。(『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集エリック・ホッファー:中本義彦訳)
 われわれは、しなければならないことをしないとき、最も忙しい。真に欲しているものを手に入れられないとき、最も貪欲である。到達できないとき、最も急ぐ。取り返しがつかない悪事をしたとき、最も独善的である。
 明らかに、過剰さと獲得不可能性の間には関連がある。
(『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集エリック・ホッファー:中本義彦訳)
 われわれが何かを情熱的に追求するということは、必ずしもそれを本当に欲していることや、それに対する特別の適性があることを意味しない。多くの場合、われわれが最も情熱的に追求するのは、本当に欲しているが手に入れられないものの代用品にすぎない。だから、待ちに待った熱望の実現は、多くの場合、われわれにつきまとう不安を解消しえないと予言してもさしつかえない。
 いかなる情熱的な追求においても、重要なのは追求の対象ではなく、追求という行為それ自体なのである。
(『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集エリック・ホッファー:中本義彦訳)
 現代においては、例えば偉大な発見であるとか、偉大な事業というような大きな事がおこなわれることがある。しかしこれは、われわれの時代に偉大さを加えることにはならない。偉大というものは、特にその出発点や、その動機や、その意図のうちに存在するのだ。89年〔1789年、フランス革命の始まった年〕には、人は祖国のため、人類のためにすべてのことをやった。帝政時代〔ナポレオンの第一帝政〕には、光栄のためにすべてのことをやった。つまりその点にこそ、偉大の源があったのだ。現代では、結果が偉大に見える時でさえも、それは利害の観点から創られただけのものである。そしてそれは投機に結びついている。そこに現代の特質がある。(『月曜閑談サント・ブーヴ:土居寛之訳)
 どうやら極限状況で命と向き合った人びとに起こる共通の体験があるらしく、おかしな言い方かもしれないが、それまで耐えてきた艱難辛苦を思えば、その体験はおそらくすばらしいことなのだ。人間の忍耐力の限界に達した人たちが成功したり生還したりした背景には見えない存在の力があったという、突飛とも思えるこの考えは、極限的な状況から生還した多数の人びとの驚くべき証言にもとづいている。彼らは口をそろえて、重大な局面で正体不明の味方があらわれ、きわめて緊迫した状況を克服する力を与えてくれたと話す。この現象には名前がある。「サードマン現象」というものだ。(『サードマン 奇跡の生還へ導く人』ジョン・ガイガー:伊豆原弓訳)
 民族主義とは、次のような考え方である。

(1)人類というのは民族という単位に分類できる
(2)それぞれの民族が独自の国家を持つべきである。これを【民族自決の法則】と呼ぶ
(3)故人は、属する【民族の発展のために貢献】すべきである

 こうした考えによれば、個人の最高の生き方は、自らの【民族の国家】のために尽くすことであり、自らの民族が国家を持っていない場合は、その建設のために働くことである。

(『なるほどそうだったのか!! パレスチナとイスラエル』高橋和夫)

パレスチナイスラエル
 迷いは、布の縦糸(たていと)、緯糸(よこいと)がほつれて片寄ること、とも言われます。混乱、混迷です。織る人の心に調和がなければ、織り成す糸が乱れることは必定でありましょう。立派な布も、簡素な衣も望めません。着る人の心もまた同じです。もし内に貪(むさぼ)りや怒りや愚癡(ぐち)といった煩悩や欲の偏りがあるなら、綾(あや)が失われるように、その言葉も行動も粗(あら)くならざるを得ません。(『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ 『大念処経』を読む片山一良

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