知床半島の海岸とサロマ湖畔に、相次いで大量死したサンマが漂着したのは11月下旬のことだったが、同じ頃、テレビでは明石家さんまが一人で“大量死”していた。具体的には、新番組「明石家さんちゃんねる」(TBS系列水曜午後9時~)が、低迷しているのだ。関東地区の視聴率は初回が10.6パーセント、2週目は8.7パーセント。うん、ひどい。ゴールデンの数字ではない。
 内容は、数字以上にひどかった。いや、つまらないだけならいいのだ。つまらなくても、数字をとっている番組はある。さんまの番組は、ずっとそうだった。さんまほどの大物になると、内容が空疎でも視聴者を誘導するだけのオーラを持っている。視聴者は、さんまの顔を見ると安心する。と、要するに、そういう蓄積の上に、長らくこの男はあぐらをかいてきたわけだ。が、それももうおしまいだ。
(『テレビ救急箱小田嶋隆
「ファイナルアンサー?」と、みのが迫る……カメラがぐぐっと寄る。約3秒間のアップ。画面いっぱいの、みの。驚異的な顔面圧力。窒息的な引っ張り。凄い。……現代の悪代官みたいだ。
 水道メーターの談合でも、この顔を使ったんだろうか? 最終入札価格を調整する時、みのは、「ファイナルプライス?」と、言ったのだろうか。  ……毎日、テレビをつけると、必ず、みのもんたが出ている。たぶん私は、親戚縁者の誰よりも頻繁にみのと会っている。いや、家族の誰よりも、かもしれない。
 いやだなあ。
 で、結局、私の書斎は、みの常駐型のテレビのおかげで、嫌いな上司が巡回しているオフィスみたいな感じの、容易にくつろげない空間になっているわけだが、どうだろう、ソニーあたりが、みの強制削除機能付きのテレビを開発したら、オレは買うぞ。10万までは出す。みの排除機能が付くなら、さらに5万円出す。どうだ?
(『テレビ標本箱小田嶋隆
 ルワンダについて、ダレール氏は次のように語る。
「ルワンダはわたしを変えました。生涯心から消えることのない体験だったからです。大量虐殺は核兵器の使用と同じく、人類が越えてはならない一線です。それなのにわたしたちは、大量虐殺を未然に防ぐ努力を怠ってきたのです」
(『NHK未来への提言 ロメオ・ダレール 戦禍なき時代を築くロメオ・ダレール伊勢崎賢治
 1994年4月14日、ベルギー人PKO兵士10名が殺害されてから1週間後、ベルギーはUNAMIR(国連ルワンダ支援団)から離脱した――フツ至上主義者たちが狙っていたとおりになった。政府の臆病さと無駄になった任務に怒り、兵士たちはキガリ空港の滑走路で国連のベレー帽を破り捨てた。1週間後、1994年4月21日、UNAMIRの司令官ダレール少将は、充分な装備の兵士わずか5000人とフツ至上主義者と戦う許可さえ得られれば、ただちにジェノサイドを止められる、と述べた。わたしが確認した軍事アナリストの中にダレールの判断を疑う者はおらず、多くはその分析に同意した。RTLMのラジオ放送施設が、明白かつ容易な最初のターゲットになる。だが、その同じ日、国連安保理事会はUNAMIRの要員を9割削減する決議を可決した。UNAMIRは270名を残して撤退することになり、残った兵士にも砂嚢(さのう)の裏に隠れて事態を見守る以上のことはできないような命令を与えた。
 国連軍のルワンダ撤退はフツ至上主義党による最大の外交的勝利であり、その責任はほぼ完全に米国にある。ソマリアでの大失敗の記憶がまだ生々しかったホワイトハウスは大統領決定指示(PDD)第25号なる文書を起草したところだった。これは要するに米国が国連平和維持活動への関与を避けるべき理由をまとめたチェックリストである。ダレールが求めた増援と攻撃指令が米兵を必要とせず、その任務が正確には平和維持活動ではなくジェノサイド防止であろうが、そんなことは関係なかった。PDD第25号には同時にワシントンの政策決定者が「政策言語」と呼ぶものまで含まれ、米国は自分が参加したくない任務を実行しないよう他国にも働きかけるべきだ、とうながしている。実際、クリントン政権下の国連大使マデリーン・オルブライトはルワンダにわずか270名の基幹定員を残すことにすら反対した。
(『ジェノサイドの丘 ルワンダ虐殺の隠された真実フィリップ・ゴーレイヴィッチ:柳下毅一郎訳)
 作家のV・S・ナイポールが記しているように、『自伝』のうち250頁が南アフリカに費やされているが、この国の黒人問題についてはほぼ一言も触れていないことは注目に値する。あたかも彼らは存在していなかったかのようである。南アフリカの問題は、白人とインド人の平等認識問題に帰している。当時のガンジーを動機づけていたのは、社会正義そのものというよりは、南アフリカ社会における同郷インド人の権利であった。(『ガンジーの実像ロベール・ドリエージュ今枝由郎訳)

ガンディー
 ゲーテはドイツ人をユダヤ人やギリシャ人と同様に悲劇の民と呼んでいるが、今やドイツ人はあたかも浅薄で意思を持たない追従者の群れのようだ。内面の奥底から骨の髄まで吸い取られ、自分自身の核となるものを奪われて、甘んじて破滅へと追い立てられゆく群れだ。見かけはそうだが、実は違う。実は、偽りの姿をとってゆっくりと忍び寄る組織的な暴力に無理強いされ、一人一人が精神の独房に閉じ込められてしまった。そして、そこに縛り上げられて横たわった時初めて、おのれの身の破滅に気づいたのだ。(※白バラのビラI)『「白バラ」尋問調書 『白バラの祈り』資料集フレート・ブライナースドルファー編:石田勇治、田中美由紀訳
 ――サンスクリットで「妙法」は「サット・ダルマ」になりますが、ありのまま、というのは“サット”ということですね。

松山●“サット”というのは、「ある」という、“アス”という動詞の現在分詞だから、「ありつつある」というのも変だけど、その本当の〈ありのまま〉がいいことだという考えがずっと残っているのは、インド人の非常に素直なところでしょう。

(『蓮と法華経 その精神と形成史を語る松山俊太郎

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