アビダルマの本は当時の仏教世界全域で恒常的に作成されたわけではない。特定の、哲学的思考を重視したグループだけがアビダルマをつくった。おそらく「そんな理屈っぽいことを考えている暇があったら修行しろ」といってアビダルマに見向きもしなかったグループもたくさんあったに違いない。したがって、現在残っているアビダルマの本の出所は、二つの地域に偏っている。一つはスリランカを起点として東南アジア諸国にまで広がる「パーリ仏教」の世界。鉢を持ち、黄色い衣を着て修行している、あのお坊さんたちの世界である。そこには多数のアビダルマが伝わっていて、お坊さんたちの必修科目として今も読まれている(現地ではアビダンマと呼ばれている)。もう一つの中心地はヒマラヤの近く、インドとパキスタンの国境地帯にあるカシミール、ガンダーラと呼ばれる地方である。ここには2000年以上前から「説一切有部」(せついっさいうぶ)という名のグループがいて、多いにアビダルマを発展させた。しかしその説一切有部は、インドにおける仏教崩壊とともに消滅し、今は存在しない。書かれたアビダルマの本だけが残っている。(『仏教は宇宙をどう見たか アビダルマ仏教の科学的世界観』佐々木閑)