国家資本は、他人が働いた成果を自分のものにする二つの運動に対応している。国家と資本にそれが可能なのは、両者がそれぞれ特定の〈権利〉のうえになりたっているからだ。つまり国家は〈暴力への権利〉のうえに、資本は、生産関係へと変換される〈富への権利〉のうえに。
 ドゥルーズガタリは、人びとから労働の成果を吸いあげることを「捕獲」と呼んでいる。暴力とカネにまつわる二つの権利は、社会において捕獲がなされる二つの軸をなしているのだ。
(『カネと暴力の系譜学萱野稔人