人はよく「自分は迷信なんか信じていない」と言いますが、世間をよくよく観察してみると、とても信じられないような迷信に人々が動かされていることに気づきます。たとえば、自殺者の出たマンションの家賃は実際に安いんです。マンションの裏がお墓でも値段が下がります。西日本の大学病院は搬出口を被差別部落に向けて作ったりしているところもありました。刑務所もそうです。死や罪にまつわる穢れ意識が差別意識と共に社会的に行使されていた例です。(『スピリチュアリズム苫米地英人
 人間の生きる営みのすべては問題解決の試みである。患者の運動機能回復もまた問題解決の試みである。そう定義すれば、リハビリテーション治療が患者にとっては「学習」であり、それを援助しようとする者にとっては「教育」であると規定できる。学ぶものと教えられるものとの相互関係の構築。これによってリハビリテーション専門家には「教師」としての立場が与えられる。セラピストは自らの治療が教育的であることを自覚しなければならなくなるのである。(『リハビリテーション・ルネサンス 心と脳と身体の回復 認知運動療法の挑戦宮本省三
戦闘開始

 二つの国から飛び立った飛行機は  同時刻に敵国上へ原子爆弾を落としました

 二つの国は壊滅しました

 生き残った者は世界中に  二機の乗組員だけになりました

 彼らがどんなにかなしく  またむつまじく暮したか――

 それは、ひょっとすると  新しい神話になるかも知れません。

(『石垣りん詩集石垣りん

詩歌戦争原爆
 仏説以前の土着的な輪廻信仰、そして古人の心を真に支配していた土着的な言霊信仰などを想起するならば、この短い物語は、単なる怪異譚ではなく、超現実の存在証明の文章でもなく、土着信仰の強靭な力をわれわれのなかに喚起するために語られ、書きとめられたに相違ない、と私は感じるのである。この物語だけでなく、『遠野物語』や『山の人生』において著者(※柳田國男)が本当に語り伝えたかったのは、日常と怪異という差別以前の、知的な差別以前の、わが国土の精神の始原にほかならない、と私は確信している。(『死と狂気 死者の発見渡辺哲夫
 精神的な機能にも廃用症候群はある。「精神性廃用症候群」といって、知的な刺激が少ないと精神的な活動が次第に低下するのである。感情の動きも鈍くなり、周囲に対する関心が薄れてくる。このような精神的機能の低下が合わさると「仮性痴呆」といって、一見ぼけたように見える。(『リハビリテーション 新しい生き方を創る医学上田敏

リハビリ
 今日的な意味での民主主義の本家本元は、おそらく、アメリカ合衆国であろう。もちろん、ルソーが想定するような民主主義が、ついにアメリカにおいて実現したということではない。そうではなくて、この新興国家は、古代ギリシャにまでさかのぼる深い議論の歴史的な重みを無視するような形で、民主主義の定義自体を変えてしまったのである。端的に言えば、アメリカ合衆国が、自分たちのやり方を民主主義だと自称し始めたということに他ならない。それが具体的な形で現れたのは、1830年代、いわゆる「ジャクソニアン・デモクラシー(ジャクソン民主政)」の時代のことであった。(『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう薬師院仁志
「大きな砲弾が落ちてきて……。砲弾が落ちるっていうことがどういうことなのか、話を聞いただけではわからないと思うわ。あなたにもわからないと思う。……バラバラにされた人体。ほんとうに凄惨だった。自分の目が信じられないくらい。戦争中に気が狂ってしまった人もいるわ。
 最初の冬が一番苦しかった。マイナス17度にもなったのに、薪もなければ、ストーブもなかったのよ。部屋の中でもコップの水が凍ってしまって飲めないの。私は一か月の間、手も顔も洗うことができなかった……」(2年半をサラエボで過ごしたサビナ・タビッチ 17歳)
失われた思春期 祖国を追われた子どもたち サラエボからのメッセージ堅達京子