精神的な機能にも廃用症候群はある。「精神性廃用症候群」といって、知的な刺激が少ないと精神的な活動が次第に低下するのである。感情の動きも鈍くなり、周囲に対する関心が薄れてくる。このような精神的機能の低下が合わさると「仮性痴呆」といって、一見ぼけたように見える。(『リハビリテーション 新しい生き方を創る医学上田敏

リハビリ
 今日的な意味での民主主義の本家本元は、おそらく、アメリカ合衆国であろう。もちろん、ルソーが想定するような民主主義が、ついにアメリカにおいて実現したということではない。そうではなくて、この新興国家は、古代ギリシャにまでさかのぼる深い議論の歴史的な重みを無視するような形で、民主主義の定義自体を変えてしまったのである。端的に言えば、アメリカ合衆国が、自分たちのやり方を民主主義だと自称し始めたということに他ならない。それが具体的な形で現れたのは、1830年代、いわゆる「ジャクソニアン・デモクラシー(ジャクソン民主政)」の時代のことであった。(『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう薬師院仁志
「大きな砲弾が落ちてきて……。砲弾が落ちるっていうことがどういうことなのか、話を聞いただけではわからないと思うわ。あなたにもわからないと思う。……バラバラにされた人体。ほんとうに凄惨だった。自分の目が信じられないくらい。戦争中に気が狂ってしまった人もいるわ。
 最初の冬が一番苦しかった。マイナス17度にもなったのに、薪もなければ、ストーブもなかったのよ。部屋の中でもコップの水が凍ってしまって飲めないの。私は一か月の間、手も顔も洗うことができなかった……」(2年半をサラエボで過ごしたサビナ・タビッチ 17歳)
失われた思春期 祖国を追われた子どもたち サラエボからのメッセージ堅達京子
 ただし、そのために裁判官としてはかなり無理をしたようです。
 あの不謹慎な手紙が明らかになっている控訴審段階で、なお被告人には反省している心が部分的にあるし、これを何とか死刑を免れさせる理由にしていました。しかし、常識的に考えてこれはおかしいです。あの不謹慎な手紙を素直に読むと、反省の心などないと見るのが社会常識でしょう。だから、あの不謹慎な手紙を何とか言いくるめて、まだ反省の心が少しはあるから死刑を免れさせようという発想がどこから出てきたのでしょうか? それは、相場主義によれば、はじめから無期懲役の結論が出ているからです。はじめに結論ありきです。ですから、多少なりとも反省の心があるから死刑は勘弁してやろうというストーリーに乗ってくれないと困るのです。
(『裁判官が見た光市母子殺害事件 天網恢恢 疎にして逃さず井上薫
 西暦135年にはイギリスも、フランスも、米国も、ポーランドも、ロシアも、ドイツも国家としては存在していなかったのだ! それなのに、ユダヤ国家だけは特別扱いされる!
 20世紀のまっただなかで、こんな時代錯誤を真剣に主張するなんておかしなことだ。2000年近い昔に消滅した国家をどんな権利で再建できるのだろう!!
(『新版 リウスのパレスチナ問題入門エドワルド・デル・リウス:山崎カヲル訳)

パレスチナ
 ダンテは私にとっては近代第一の天才である。ダンテは深い闇の直中に光りかがやく太陽である。彼にあってはすべてが非凡である。彼の独創性は、とりわけ、彼に一つの特別な位置を与えている。アリオストは騎士小説と古代の詩とを模倣した。タッソもそうであった。ダンテはその霊感を他のいかなる人からも汲むことを肯(がえ)んじなかった。彼は自己に徹しようとした、ただ自己にのみ徹しようとした。一口にいえば創造しようとした。彼は広大な結構をとらえて、それを崇高な精神の持主の優越でもって満たした。彼は変化があり、恐ろしく、また優雅である。彼には奇想と、熱と、人の心を惹きつけるものとがある。彼は読者をして身ぶるいさせ、涙を流させ、敬意を覚えさせずにはいない。これは芸術の頂点である。いかめしくも偉大な彼は、犯罪に対しては恐ろしい呪いを浴びせかけ、悪徳を罰し、不幸を嘆いてる。共和国の法律によって追放された市民として、彼はその圧制者たちに対しては怒りを投げつけているが、故郷の町はこれを赦している。フィレンツェはいつになってもなつかしい、彼のやさしい祖国なのである。……私は、わが愛するフランスが、ダンテに匹敵する人物を産まなかったことについて、イタリアを羨む。(『ナポレオン言行録オクターブ・オブリ編:大塚幸男訳)

ナポレオン
 自由でないのに、自分は自由だと思っているものほど奴隷(どれい)になっているものはない。(「親和力」第二部第五章から)『ゲーテ格言集ゲーテ:高橋健二訳
 いかなるジャンルの台本であろうと、現場担当者が作家にする注文は「もっとくだらなく」「もっとばかばかしく」「もっと低俗に」に集約される。
 現在、娘が強要され、ついに降りざるを得なくなったその「もっと・注文」は、私が日本嫌悪のあまり豪州に脱出した1987年の時点の千倍、いや万倍に達する「増加」ぶりである。
 過言ではない。奇を衒(てら)って誇張しているのではない。
 もし人間に理性があり、常識と良識が残っているのならば、この「もっと」がいかに非人間化を促進させる内容か、納得するはずだ。私はその千分の一、万分の一にも我慢ができなかった。たとえば、以前他の文章にもした内容だが、私が筆を折る最後の決意は、日本テレビ系の連続ドラマを書いている最中に起きた。ワンクール予定の4回目、視聴率が落ちた。プロデューサーが私に注文した。「林さん、次の回で、レイプシーンを書いてください」
「いったい、登場人物の誰が誰をレイプするんだ」
 絶句して私が訊ねた。
「それは、お任せします。誰が誰でもかまいません」
「しかし、今までのストーリー進行の中に、そんな可能性のある設定はどこにもない」
「そこにこそ、意外性、つまりドラマ性がある」
(『おテレビ様と日本人林秀彦

テレビ
 弘兼憲史は、大学を出た後、松下電器に3年半ほど勤めた経験を持っているのだそうだが、なるほど松下(会社に対する全面的な献身を要求する企業型宗教、または宗教的なまでに高められた団結力で経営をすすめる宗教型企業)臭あふれる話である。(『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ小田嶋隆
 他人に服のなかに手を突っ込まれると、まるでじぶんの内部を蹂躙(じゅうりん)されたような不愉快な気分になる。なんと無礼な、ということではきっとすまず、むしろ生理的に耐えがたいような危うさを感じるはずだ。服のなか、そこは〈わたし〉のなか、秘せられてあるべきわたしの内部なのである。(『悲鳴をあげる身体鷲田清一
 通説によれば、釈迦を殺そうとした悪人デーヴァダッタは、最後には、生きながら火焔に包まれて、「無間地獄」へ落ちて行ったとされていますが、釈迦の没後900年頃、経典を求めてインドにおもむいた法顕(340?-420?)が、その見聞録(『法顕伝』)の中で、調達(デーヴァダッタ)派の仏教僧団がネパール地方にあったと述べており、また、玄奘(600-664)も、その著『大唐西域記』の中で、ベンガル地方に提婆達多派の仏教僧団があったと述べていますから、釈迦の没後の後継者争いに敗れたデーヴァダッタが、彼の僧団をひきいて辺境の地に逃れ、バラモン階級出身者の手にその主導権がにぎられた中央の『正統派仏教僧団』からの激しい迫害と常に闘いながら、かなり長年月の間、生きながらえて、強烈な感化を及ぼしたことも、充分に考えられるのであります。そして、この釈迦の正統な後継者と称する中央の仏教僧団への反抗が、釈迦への反感や軽侮を産み出したようであり、大乗仏教で、釈迦の在世中に直接釈迦から説教を聞いた弟子たちが「声聞」(sravaka シュラヴァカ)――釈迦の声を聞いた者――と軽侮されて、最下位に置かれ、誰の声も聞かずに、独自の方法でさとった者たちが「独覚」(pratyekabuddha プライエティカブッダ)と呼ばれて、その上に位置し、更に、その上に、仏陀の声を聞いてさとりを求める者としての「菩薩」が置かれているのもそのためであると推定されます。(『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である堀堅士

キリスト教エリザベス・クレア・プロフェット
 近代の人間の特質は、財(富)を肯定的にとらえることである。これに背を向けた思想は近代思想の仲間にはなれなかった。近代思想は財に対してこれをどう蓄積するか、管理するかという問題にとりくんできた。非主流の思想さえ、現実世界での豊かさを追求してきた。徳川幕府以降の近代日本において、仏教は生産労働、財の蓄積といった問題に関して、ガイドラインになるような思想形態を生み出すことはできなかった。(中略)
 空の思想は元来、富の蓄積とは反対の方向に走っているのである。
(『空の思想史 原始仏教から日本近代へ立川武蔵
 カミの語源が「隠れ身」であるように、ほんとうに大切な崇(あが)めるべき存在は、隠されたものの中にある。(『性愛術の本 房中術と秘密のヨーガ』)

性愛術
 一般的にいって、自信のない政治ほど強権を用いやすいというのは、古来の政治的定説である。政治が、国民の自発的活力を吸い上げるサイフォンの役を演じているところでは、強権の利用価値は、それほど大きくない。権力の持ち主が、国民の支持を心の底から信じていないとき、または自己の陣営に弱みや派閥のおそれがあるような場合には、とかく対立する政治勢力に強権を発動して、必要以上の緊張感をつくり出し、それによって自らの陣営の一致強化をはかるというのは、権力を維持してゆく場合の常用手段だが、真の自立国家をねがうものは、万一にも、そうした道を選んではならないのである。(『政治を考える指標辻清明
「風評に惑わされるのは小者のすることだ。おまえはいつも人の話を半分も聞かずに拳を上げる」(『時宗高橋克彦
「われわれは決まりどおりに動いた」クロムウェルは言った。「最後まで完璧に決まりどおりに。神かけて言うが、われわれは大虐殺を防ぎ、どうにか悲劇に耐えたのだ」
「メモしておいたほうがいいかな」
 クロムウェルは椅子の背にもたれ、私に険しい視線を向けた。人差し指を立て、こちらへ何度か突きだした。
「小利口なことを言うじゃないか」クロムウェルは言った。「早めに教えておいたほうがいいだろうな。このあたりじゃ、そういう小利口な発言に対するわれわれの忍耐力はゼロだ」
(『スクール・デイズロバート・B・パーカー:加賀山卓朗訳)
 キリシタン時代に日本にやってきた宣教師は、最初は日本の仏教が東南アジアの仏教と同じ起源をもつ宗教だと気がつかなかったほどです。(『日本仏教史 思想史としてのアプローチ末木文美士
 結局、人間ひとりひとりが生きていくなかでの表出と表現の積畳が歴史です。表出というのは自覚されないまま外側へ出ていくものです。じつはこの部分の方が大きいのです。それから意識的に表現する部分があり、この二つの蓄積が現在の文化的な状況、すなわち歴史をつくっています。
 その人間の表出と表現を生み出すのは、――ここが一番大事なところですが――、人間の意識下の意識、つまり無意識、自覚されない意識です。表現といえども無意識が原動力になっています。怖いのは何かぽろっと漏らした言葉にじつは本心があったり、あるいは自分が自覚しないでついつい反復して使っている言葉にスタイルが宿ることです。頑張って意識的に小説を書いたとか詩を書いたとか、そういうところよりも、むしろ普段何気なくしゃべっているときに、いつもあの人はこういう言葉を使うとか、あるいはこういうふるまいをするというところに本心があって、そういう自分自身すら気づいていないような本心の積み重なりが歴史をつくっています。
(『漢字がつくった東アジア石川九楊
 笑いとは憂いを払う玉箒(たまぼうき)であり、悩みを吹き飛ばす掃除器(ママ)だからだ。笑いなくして人間は生きていけない。笑いがあればこそ人の涙はかわくのであり、悲嘆は勇気へと生れ変る。切なさは余裕にとってかわり、悩みは杞憂のように思えてくる。「杞憂」とは天が崩れ落ちてきはしまいかと夜も眠らずに悩んだ杞(き)の国の男の心配をいうのである。笑いとは、憂いを杞憂と思い直させることにほかならない。(『生き方の研究森本哲郎
 ユダヤ関連の商品や商店に対する不買運動が始まったのが、1933年4月1日である。それはわずか1日で終わったが、1週間も経たぬ4月7日には、市民公職法が発効された。これは、同じドイツ人でも、非アーリア系のドイツ人は、公証人、公立学校教師などの職に就いてはならないと定めるもので、法律によるユダヤ系ドイツ人の差別の端緒となったものであった。
 これより事態はすこしずつ加速していく。5月10日には、ナチス党員である学生や教職員が、ほぼ全国の大学や図書館で、「ドイツの文化的純血を損なうと懸念される」図書を焼くという大規模な事件が起こっている。このとき、焼却された図書の著書には、アルバート・アインシュタイン、ジグムント・フロイド、ステファン・ツヴァイクなどが含まれている。かつて、ドイツの詩人、ハインリッヒ・ハイネは有名な言葉を吐いている。
「本を焼却する国はやがて人を焼却するようになる」
 この言葉が、やがて現実となる。
(『権威主義の正体岡本浩一

権威
 統合失調症患者が異常な数のドーパミン受容体を有することが発見されたとよく言われるが、この証拠自体、確かなものというわけではない。正常の人にくらべ、統合失調症患者でドーパミン受容体の数が多いという結論を導き出した研究における差異は、平均値におけるものであり、これに当てはまらない統合失調症患者も多い。また、ほとんどの研究者は、統合失調症でドーパミン受容体の異常があるという証拠をまったく確認できていない。(『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の科学と虚構エリオット・S・ヴァレンスタイン:中塚公子訳)

精神疾患
 海が見たい、と私は切実に思った。私には、わたるべき海があった。そして、その海の最初の渚と私を、3000キロにわたる草原(ステップ)と凍土(ツンドラ)がへだてていた。望郷の想いをその渚へ、私は限らざるをえなかった。空ともいえ、風ともいえるものは、そこで絶句するであろう。想念がたどりうるのは、かろうじてその際(きわ)までであった。海をわたるには、なによりも海を見なければならなかったのである。
 すべての距離は、それをこえる時間に換算される。しかし海と私をへだてる距離は、換算を禁じられた距離であった。それが禁じられたとき、海は水滴の集合から、石のような物質へと変貌した。海の変貌には、いうまでもなく私自身の変貌が対応している。(「望郷と海」〈『展望』1971年8月〉)
石原吉郎詩文集石原吉郎

シベリア抑留詩歌強制収容所
 ポツダム宣言の第9項には、「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得しめられるべし」とあったが、この条項には“送還の期限”が定められていないとして、ソ連は日本人捕虜のシベリア抑留・強制労働を強行した。最近になって、全抑協(※全国抑留者補償協議会)の斎藤六郎会長が、ロシア国防省の公文書館に保存されていた資料を調べた結果、敗戦後、山田乙三(おとぞう)関東軍総司令官がワシレフスキー極東ソ連軍総司令官に対して、帰国するまで捕虜将兵を、満州でソ連軍の使役に従事させる、と申し出ていたことを明らかにしている。これが事実とすれば、関東軍総司令官は、シベリア抑留への道をみずから開いたことになる。(『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史多田茂治

石原吉郎強制収容所
 じじつ、かれは非常な読書家であり続けた。シエラ・マエストラでも、ゲーテを読み、セルバンテスを読み、さらにはマルクスレーニンの著作に眼を通していた。戦争以外には何もできない男ではないことを、それは物語っている。かれは医師からゲリラ戦士になり、ゲリラ戦士から革命家へと昇華して行ったが、いついかなる時でも、読書だけは怠らなかった。日記をつけることと本を読むこととは、かれの終生一貫した習慣であった。(『チェ・ゲバラ伝三好徹

ゲバラ
 おれは、今までに、天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠(よこい・しょうなん)と西郷南洲(さいごう・なんしゅう)とだ。
 横井は、西洋の事も別に沢山(たくさん)は知らず、おれが教へてやつたくらゐだが、その思想の高調子な事は、おれなどは、とても梯子(はしご)を掛けても、及ばぬと思つた事がしばしばあつたヨ。おれはひそかに思つたのサ。横井は、自分に仕事をする人ではないけれど、もし横井の言を用ゐる人が世の中にあつたら、それこそ由々(ゆゆ)しき大事だと思つたのサ。
 その後、西郷と面会したら、その意見や議論は、むしろおれの方が優(まさ)るほどだツたけれども、いはゆる天下の大事を負担するものは、果して西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ。
(『氷川清話勝海舟江藤淳、松浦玲編)

福翁自伝日本近代史
 およそこういう風で、外に出てもまた内にいても、乱暴もすれば議論もする。ソレゆえ一寸(ちょいと)と一目(いちもく)見たところでは──今までの話だけを聞いたところでは、如何にも学問どころのことではなく、ただワイワイしていたのかと人が思うでありましょうが、そこの一段に至っては決してそうではない。学問勉強ということになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われるその一例を申せば、私が安政3年の3月、熱病を煩(わずろ)うて幸いに全快に及んだが、病中は括枕(くくりまくら)で、座蒲団が何かを括って枕にしていたが、追々元の体に回復して来たところで、ただの枕をしてみたいと思い、その時に私は中津の倉屋敷に兄と同居していたので、兄の家来が一人あるその家来に、ただの枕をしてみたいから持って来いと言ったが、枕がない、どんなに捜してもないと言うので、不図(ふと)思い付いた。これまで倉屋敷に一年ばかり居たが、ついぞ枕をしたことがない、というのは、時は何時(なんどき)でも構わぬ、殆んど昼夜の区別はない、日が暮れたからといって寝ようとも思わず、頻(しき)りに書を読んでいる。読書に草臥(くたび)れ眠くなって来れば、机の上に突っ臥(ぷ)して眠るか、あるいは床の間の床側(とこぶち)を枕にして眠るか、ついぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどということは、ただの一度もしたことがない。その時に初めて自分で気が付いて「なるほど枕はない筈だ、これまで枕をして寝たことがなかったから」と初めて気が付きました。これでも大抵趣がわかりましょう。これは私一人が別段に勉強生でも何でもない、同窓生は大抵みなそんなもので、およそ勉強ということについては、実にこの上に為(し)ようはないというほどに勉強していました。(『新訂 福翁自伝福澤諭吉

氷川清話日本近代史
 言うまでもなく、激しく動くほど(速いペースで登るほど)より多くの酸素が必要になる。標高7000メートルでは、海抜ゼロメートルに比べて体の動きは4割以下に落ちる。したがって、無酸素登山のペースはかなり遅くなる。1952年にレイモンド・ランベールとテンジン・ノルゲイがエベレストのサウスコルを登ったときは、わずか200メートルに5時間半かかった。ラインホルト・メスナーとペーター・ハーベラーは山頂が近づくにつれて、疲労のあまり数歩ごとに雪の中に倒れ込み、最後の100メートルに1時間かかった。(『人間はどこまで耐えられるのかフランセス・アッシュクロフト:矢羽野薫訳)

登山
 結果は歴然としていた。赤ん坊は提示されたフレーズの種類にふさわしい反応をした。どの言語の発話でも、無意味語の発話でも、禁止を表すフレーズには顔をしかめ、容認を表すフレーズには微笑んだ。だがひとつだけ、さほど予想外でない例外があった。日本語で話されたフレーズには子どもが反応しなかったのだ。(アン・)ファーナルドは、日本人の母親の場合、欧州言語を話す母親よりピッチ変化の幅が狭いためと考えた。この結果は、日本人の音声表現や表情が解読しづらいとする他の研究とも一致する。(『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化スティーヴン・ミズン:熊谷淳子訳)
 片方の腕をさっと伸ばしてぼくらを指し、反乱兵の一人が言いはなった。「目の前にいるこいつらを殺すことによって、おまえら全員を入隊させる。血を見せれば、おまえらは強くなる。そのためにはこうすることが必要なのさ。もう二度とこいつらに会うことはないだろう。まあ来世を信じていれば話は別だが」。彼はげんこつで自分の胸をたたいて笑った。
 ぼくは振りかえってジュニアを見た。目が赤い。涙をこらえようとしているのだろう。彼はこぶしを固く握りしめて、手の震えをおさえている。ぼくは声を押し殺して泣きだし、そのとき急に目まいがした。選ばれた少年のうちの一人が反吐(へど)を吐いた。反乱兵の一人が銃床でその子の顔をなぐり、ぼくらの列に押し込んだ。歩き続けていると、少年の顔から血が流れてきた。
(『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だったイシメール・ベア:忠平美幸訳)

少年兵
 では、人間の姿勢とはどういうことか、根本から吟味してみよう。
 第一に、人間が生きている、ということは、基本的には「立って」動いていることである。これが出発点だ。人間は、休むとき眠るときは横になるが、活動しているときは立っている。もちろん坐っているときもあるが、これも基本的には、脚が休んでいるだけで、腰から上は立っているから、立っていることのうちに入れる。人間の姿勢というとき、それは立っている姿勢のことだ。
(『ことばが劈(ひら)かれるとき竹内敏晴
 お茶をいただきながら女子教育はと尋ねると、女に教育は無駄と冷たい。なぜですかと問うと、コーランの教えだと胸を張る。しめたとばかり、どのスーラ(章)にそう書いてありましたっけと、手提げから取り出したコーランの頁を繰りはじめた。実は自分は読んだことがないと白状してくれるまで、時間はかからなかった。歴史的な観点から見れば、まるで女性解放革命宣言ともとれるコーラン。仏教徒だから深くは知りませんが、と断って女子教育や女性の地位に関した部分を拾い読みしながらのイスラム談義となった。(中略)
 それ以来、どこに旅しても頻繁に、慌てる同行の役人たちをなだめすかしては飛び入りの訪問のわがままをさせてもらった。普通、途上国の教師たちは田舎の学校が大嫌い。大枚を積んでまで政治家に取り入って、都会に転勤してしまう。最もひどいのは、そうでなくても不足がちな英語や数学の教師。事前通告なしの視察をするたびに見た、来ない先生を辛抱強く待つ幼い顔は、教育制度改革なしには援助融資拒否という姿勢を保つ原動力となった。
 スリランカの辺鄙な村では、もうひと月も待っているのと堪(こら)えきれずに泣き出した小学1年生の教室で、じゃあ今日だけでもと臨時英語教師になりすましたこともあった。ABCを歌い、童話を読み、感想文の発表会をし、楽しい一日を過ごさせてもらった。
 それを「変事」と聞いて飛んできた、土地の政治家の慌てた顔に、堪忍袋の緒が切れた。明日も来てとすがりつく子供たちの前で、私腹を肥やすより国の将来を思え、君はそれでも政治家か、人の親か、と激怒した。「先生ありがとう、もういいよ」と、一生懸命なだめてくれたあの子たちの澄んだ瞳を忘れることなどできやしない。
(『国をつくるという仕事西水美恵子