年をとる それはおのれの青春を
 歳月の中で組織することだ  ポール・エリュアール、大岡信訳
『途絶えざる詩II』(1935)所収。上記詩集は20世紀前半のフランスを代表するこの詩人の没後1年して刊行された。右の2行は700行近い長編詩「よそにもここにもいずこにも」の中にある。私は詩集刊行当時この詩を読み、何とか日本語に移そうと試みたが中途で挫折した。したがって右の詩句は未完の訳からという変則的なことになるが、ここに含まれる生への洞察に敬意を表して、あえて引用した。
(『折々のうた 第十大岡信

詩歌
 黒こげの焼死体から、うっすらと湯気がたち昇っていく。血や、体液が気化しかかっているのだ。今朝いよいよ発つという、まぎわまで読みつづけていた法花経も、万巻の書物も、父母も、友も、幼なじみも、自分らしさを裏打ちするはずの日々の記憶も、あっけなく消えていくだけなのか。燃えあがる図書館のようにすべてが滅び、炭酸カルシウムが残るだけか。蜜と灰か。ほんとうに、それだけなのかと私はまた、性懲りもなく自問する。脳裡に浮上した思いや、これだけは疑いようなく、ぎりぎりあると思える意識のさざ波が、いつか人類の阿頼耶識(あらやしき)となりうるのか。(『焼身宮内勝典
 脱獄についての取調べがおこなわれ、桜井も同席した。
 脱獄時刻は、桜井の推定通り看守が用をたしにいった午前0時50分から1時までの間で、外塀を乗りこえて逃走したことがあきらかになった。
 合鍵づくりについては、驚くべき方法がとられていた。かれは、入浴時に手桶にはめられていた金属製のたがをひそかにはずして房内に持ち帰り、かくした。ついで、入浴後、房に入る時に湯でふやけた掌(てのひら)を錠の鍵穴に強く押しつけ、その型をとり、さらに入浴中、臀部(でんぶ)をあらうふりをよそおってたがを床のコンクリート面で摩擦し、合鍵をつくった。
(『破獄 吉村昭
 これは、一見、大変に不可解なことだ。
 夫婦の結び付きがより強い(アメリカ人の)彼らのほうが、他人行儀な我々に比べて、断然、離婚しがちであるのだ。
「じゃあ、夫婦の愛って、いったい何なの?」
 と、初心者は思うことだろう。
 お答えしよう。
 夫婦の愛というのは、一種の無関心である。
 お互いに見つめ合って、語り合って、肩を抱き合って、愛し合って、それで夫婦が成立しているのであるとすれば、会話がとだえただけで、視線がそれただけで、あるいは愛情が幾分冷めただけで、別れなければならない。
 が、どっこい我々は別れない。
 同じ電車の中で、別々に座って、不機嫌に黙りこんでいる我々は、決して別れない。
 そういう、「別れないだけでいるだけの夫婦」が、日本中に山ほどいる。
 素敵だ。
 と私は思う。
(『「ふへ」の国から ことばの解体新書小田嶋隆
 人はそれぞれ相異なる現実をもつために、絶えず摩擦と対立を生じる。加えて、あらゆるものが劣化し、陳腐化する。これが現実である。したがって、ドラッカーが探し求めたものとは、不滅の真理ではなく、不完全な人間社会において相対的に機能する意思決定だった。
 見解からスタートせよとは、そのための手法である。なぜなら、相反する意思の衝突、異なる視点の対話、異なる判断からの選択があって、はじめて検討すべき選択肢が提示され、相対的に信頼できる決定を行う条件が整うからである。
(『ドラッカー入門 万人のための帝王学を求めて上田惇生
「これらの人びとは非常に従順で、平和的であります」と、コロンブススペイン国王と王妃に書き送った。「陛下に誓って申し上げますが、世界中でこれほど善良な民族は見あたらないほどです。彼らは隣人を自分と同じように愛し、その話しぶりはつねにやさしく穏やかで、微笑が耐えません。それに、彼らが裸だというのはたしかですが、その態度は礼儀正しく、非のうちどころがないのです」
 当然こうした事柄は、未開のしるしではないにしても、弱さのあらわれとして受けとられ、廉直なヨーロッパ人たるコロンブスは、確信をもって、「これらの人びとが働き、耕し、必要なすべてのことをやり、われわれのやり方に従う」ようにしむけるべきだと考えた。
(『わが魂を聖地に埋めよ アメリカ・インディアン闘争史』ディー・ブラウン:鈴木主税訳)

インディアン
 ある思想の基礎的な土台は他者の思想なのであって、思想とは壁の中にセメントで塗り込められた煉瓦なのである。もし思索をめぐらす存在が自己自身を振り返ってみるときに、一つの自由な煉瓦を見るだけで、この自由という外見を手にするためにその煉瓦がどれほど高い代価を支払っているかを見ないとすれば、それは思想にはよく似てはいるがその模像にしか過ぎないのである。なぜなら彼は手を加えられぬまま放置されている空地とか、残骸や破片の山積みを見ようとしないのだから。しかし実は彼は、臆病な虚栄心のせいで、その自分の煉瓦を後生大事に手にしたまま、そのような空地や残骸の山に遺棄されているのである。(『宗教の理論』ジョルジュ・バタイユ:湯浅博雄訳)

宗教