学ぶのに飽きた人は、何ひとつ学ばなかった人だ。(『蝿の苦しみ 断想エリアス・カネッティ:青木隆嘉訳)
 きつぱりと冬が来た
 八つ手の白い花も消え
 公孫樹(いてふ)の木も箒になつた

 きりきりともみ込むような冬が来た
 人にいやがられる冬
 草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た

 冬よ
 僕に来い、僕に来い
 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ

 しみ透れ、つきぬけ
 火事を出せ、雪で埋めろ
 刃物のやうな冬が来た(「冬が来た」)

(『高村光太郎詩集高村光太郎

詩歌
「あなたはなんでも喜べるらしいですね」あの殺風景な屋根裏の部屋を喜ぼうとしたパレアナの努力を思い出すと、少し胸がつまってくるような気がしました。
 パレアナは低く笑いました。
「それがゲームなのよ」
「え? ゲームですって?」
「ええ、『なんでも喜ぶ』ゲームなの」
「遊びのことを言ってるのよ。お父さんが教えてくだすったの。すばらしいゲームよ。あたし、小さい時からずうっと、この遊びをやってるのよ」
(『少女パレアナエレナ・ポーター:村岡花子訳)
 このプンニカーおばちゃんの話を読むたびに感心するのは、「作られた常識」のわなを次々と、軽々と、乗り越えてゆく、その自由さ、精神の軽さです。もちろん、その軽さは、軽薄さではありません。強靭な精神の瞬発力に支えられた軽さなのです。
「鳥のように軽くあらねばならない、羽根のようではなく」というポール・ヴァレリーの言葉を思いだします。
 そう。羽根は確かに軽く、風に乗れば高く舞い上がるかもしれませんが、風が無くなると堕ちてしまいます。しかし、鳥はその必死の羽ばたきで、自ら軽く飛ぶのです。(中略)
 バラモンは最も高い階級で、いわゆる教養があるはずです。対してプンニカーは差別され、恵まれない階級に属していました。満足な教育も受けていないのです。しかし、バラモンには精神の停滞があり、プンニカーには精神のはつらつとした瞬発力がありました。
(『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う友岡雅弥

ブッダ宗教
 ゲルハルト・フライは、フェルマーの最終定理の真偽が、谷山=志村予想が証明できるかどうかにかかっているというドラマティックな結論を導いたのである。つまり、もしも谷山=志村予想が証明できれば、自動的にフェルマーの最終定理を証明したことになるのだ。こうして、この100年間ではじめて、難攻不落の城に攻め入る道が見えたかに思われた。フライが言うには、フェルマーの最終定理を証明するために乗り越えなければならないハードルは、谷山=志村予想を証明することだけだというのだから。(『フェルマーの最終定理サイモン・シン:青木薫訳)

数学
 マダム・ガイヤールはまだ30にもなっていないのに、もうとっくに人生を卒業していた。外見は齢相応にみえた。と同時にその倍にも見えたし3倍にも見えた。100倍も歳月を経たミイラ同然だった。心はとっくに死んでいた。幼いころ、父親に火掻き棒で一撃をくらった。鼻のつけ根のすぐ上。それ以来、嗅覚がない。人間的なあたたかさや冷たさ、そもそも情熱といったもの一切に関心がない。嫌悪の感情がない代わりにやさしさもない。そんなものは、あの火掻き棒の一撃とともにふきとんだ。絶望を知らない代わりに喜びも知らない。齢ごろになって男と寝たとき、何も感じなかった。子どもが生まれたときもそうだった。生まれた子が次々と死んでいっても悲しいとは思わなかった。生き残ったのがいても、うれしいというのではない。夫に殴られているとき、からだをすくめたりしなかった。その夫がコレラのために収容所で死んだとき、ホッとしたりもしなかった。彼女が感じる唯一のものは月経のはじまり。ほんの少しだが気分がめいる。月経が終わると少しばかり気が晴れる。ほかにこの女は何一つ感じない。(『香水 ある人殺しの物語パトリック・ジュースキント池内紀訳)