普通は、喉の渇きをいやすには、夕方のスープと、朝の10時ごろに配給される代用コーヒーで十分だった。しかしそれではもはや十分でなかった。渇きは私たちを責めさいなんだ。それは飢えよりもずっと切実だった。飢えは神経の言うことに従い、小康状態になり、苦痛、恐怖といった感情で一時的に覆い隠すことができた(私たちはイタリアから汽車で運ばれて来た時、このことに気がついた)。渇きはそうではなくて、戦いを決して止めなかった。飢えは気力を奪ったが、渇きは神経をかき乱した。そのころは昼も夜も、渇きがつきまとって来た。(『溺れるものと救われるものプリーモ・レーヴィ:竹山博英訳)

ナチス強制収容所
 デパートは、そもそも「百貨店」とうい、およそ汗くさい、どうにもよろず屋的なバッタ商売の英訳に過ぎない言葉であり、歴史的に見れば「闇市」の発展形として成立した、一種のハイパー闇市なのだ。
 疑うのならまわりを見回してみるが良い。
 T急、S武は地上げ屋の出店だし、M越は呉服屋出身の高利貸しがおっ建てたものだ。T島屋だって、もとはといえば闇屋まがいの商売をやっていたS木屋を乗っ取って出来上がった店にほかならない。
 とすれば、いまだにアメ横じみた闇市臭を遺しているアブアブ赤札堂は、むしろデパートとしての出自に忠実な、王道を行く店なのである。
(『山手線膝栗毛小田嶋隆
 助手に採用されるということはアカデミアの塔を昇るはしごに足をかけることであると同時に、ヒエラルキーに取り込まれるということでもある。アカデミアは外からは輝ける塔に見えるかもしれないが、実際は暗く隠微なたこつぼ以外のなにものでもない。講座制と呼ばれるこの構造の内部には前近代的な階層が温存され、教授以外はすべてが使用人だ。助手―講師―助教授と、人格を明け渡し、自らを虚しくして教授につかえる。その間、はしごを一段でも踏み外さぬことだけに汲々とする。雑巾がけ、かばん持ち。あらゆる雑役とハラスメントに耐え、耐え切った者だけがたこつぼの、一番奥に重ねられた座布団の上に座ることができる。古い大学の教授室はどこも似たような、死んだ鳥のにおいがする。
 死んだ鳥症候群という言葉がある。彼は大空を悠然と飛んでいる。功成り名を遂げた大教授。優雅な翼は気流の流れを力強く打って、さらに空の高みを目指しているようだ。人々は彼を尊敬のまなざしで眺める。
 死んだ鳥症候群。私たち研究者の間で昔からいい伝えられているある種の致死的な病の名称である。
 私たちは輝くような希望と溢れるような全能感に満たされてスタートを切る。見るもの聞くものすべてが鋭い興味を掻きたて、一つの結果が次の疑問を呼び覚ます。私たちは世界の誰よりも実験の結果を早く知りたいがため、幾晩でも寝ずに仕事をすることをまったく厭(いと)うことがない。経験を積めば積むほど仕事に長(た)けてくる。何をどうすればうまくことが運ぶのかがわかるようになり、どこに力を入れればよいのか、どのように優先順位をつければよいのかが見えてくる。するとますます仕事が能率よく進むようになる。何をやってもそつなくこなすことができる。そこまではよいのだ。
 しかしやがて、最も長けてくるのは、いかに仕事を精力的に行っているかを世間に示すすべである。仕事は円熟期を迎える。皆が賞賛を惜しまない。鳥は実に優雅に羽ばたいているように見える。しかしそのとき、鳥はすでに死んでいるのだ。鳥の中で情熱はすっかり燃え尽きているのである。
(『生物と無生物のあいだ福岡伸一
 私は、教師にとって、子どもというものが教える対象でしかないということ、あるいは教える対象としてしか子どもを見ることができないという事実が根本にあって、教師をひどく冷たい、非人間な存在にしてしまっているように感じているのです。(『問いつづけて 教育とは何だろうか林竹二

教育
 人間が遊ぶ能力を失わない、というのは、こう考えると大変すばらしいことといえる。一方ではそれは、人間が一生涯学習能力を持ちつづけることを意味している。また逆に、人間は遊ぶおかげで、種々の能力をますますのばしていく機会を持つことになる。(『知的好奇心波多野誼余夫〈はたの・ぎよお〉、稲垣佳世子)
「いいか、ここで本気にならないと取返しはつかないぞ。過ぎ去った事はすっかり忘れていい。これからが勝負だ。自信をもって堂々とやれ。いちばん強いのは本気だということだ」(「青嵐」)『一人ならじ山本周五郎