ここで初めの問いに戻ると、人間が他の生物に比べて相対的な「最大寿命」が長いということの意味が、以上のことから明らかになる。それは、人間の場合、生殖を終えた後の「後生殖期」が長い、ということである。つまり、純粋に生物学的に見ると“不要”とも言えるような、子孫を残し生殖機能を終えた後の時代が構造的に長い、という点に、「ヒト」という生き物のひとつの大きな特徴がある。(『死生観を問いなおす広井良典
 君たちは或る人の生活を、また或る人の死を、とやかく言い、何か格別の功績のために偉大とされる人物の名前に向かって、あたかも見知らぬ人に出会って吠えかかる小犬のように吠えかかる。君たちにとっては、誰もが善き人と思われないほうが好都合だからであって、あたかも、他人の美徳が君たち全体の過失を叱ってでもいるかのように思えるのだ。君たちは嫉妬しながら、他人の輝かしさを自分の汚なさに比べるが、そんなことをあえて行なうことが、どんなに君たちの損になるかも分からない。ところが、もし徳を求める者たちが貪欲で好色で野心家であるというならば、徳という名を聞くだけで嫌気を覚える君たちは、一体全体何者だというのか。(「幸福な人生について」)『人生の短さについて 他二篇セネカ茂手木元蔵
「東洋の宗教哲学はすべて、宇宙エネルギーだという考えに基づいています。それが現代の量子物理学によって裏づけられたってわけですよ。それに東洋では、宇宙において人間の心は基本的にひとつだと信じられています。これは、ユングの集合的無意識を想起せずにはいられません。
 仏教徒は、万物は永遠ではないと信じています。ブッダは、この世界の苦しみはすべて、人間がひとつの考えやモノに執着することから生まれると説きました。人はあらゆる執着を捨て、宇宙は流れ、動き、変化するものだという真理をうけいれるべきだとね。仏教の視点からすると、時空とは意識の状態の反映でしかありません。仏教徒は対象をモノとしてではなく、つねに変化していく宇宙の動きと結びついた動態過程とみなしています。彼らは物質をエネルギーとしてとらえているんですよ。量子物理学と同様にね」
(『数学的にありえないアダム・ファウアー:矢口誠訳)
 自ら思索する者は自説をまず立て、後に初めてそれを保証する他人の権威ある説を学び、自説の強化に役立てるにすぎない。ところが書籍哲学者は他人の権威ある説から出発し、他人の諸説を本の中から読み拾って一つの体系をつくる。その結果この思想体系は他人からえた寄せ集めの材料からできた自動人形のようなものとなるが、それに比べると自分の思索でつくった体系は、いわば産みおとされた生きた人間に似ている。その成立のしかたが生きた人間に近いからである。すなわちそれは外界の刺激をうけてみごもった思索する精神から月満ちて生まれたのである。
 他人から学んだだけにすぎない真理は、我々に付着しているだけで、義手義足、入れ歯や蝋の鼻か、あるいはせいぜい他の肉を利用して整形手術がつくった鼻のようなものにすぎないが、自分で考えた結果獲得した真理は生きた手足のようなもので、それだけが真に我々のものなのである。思想家と単なる学者との相違もこのような事情に由来する。したがって自ら思索する者の精神的作品は1枚の生き生きとした絵画、光りと影の配合も正しく、色調も穏やかで、色彩のハーモニーもみごとな生き生きとした出色の絵画のおもむきを呈する。これに反して単なる学者の著作は、色彩もとりどりに豊かでくまなくととのってはいるが、ハーモニーを欠いた無意味な一枚の絵画板に近い。
(『読書について 他二篇ショウペンハウエル

読書
 ヒトの脳に考えを行動に移そうとする強迫的な傾向があるならば、われわれが神話を演じずにはいられないことも、容易に理解できる。運命、死、人間精神の本質などの神話のテーマは、誰にとっても大きな関心事であり、注目すべき問題であるからだ。われわれの祖先が神話をイメージし、それを演じているうちに、リズミカルな動作の繰り返しによって超越的な感覚を誘発できることに気づく者が出てきた可能性は非常に高い。神話のテーマや物語に、このたしかな感覚が加わったとき、効果的な宗教儀式が創造(実際には「発見」)される。
 効果的な宗教儀式はどれも、神話のテーマと一定の神経学的過程とを結びつけ、神話に生命を吹き込む点で共通している。象徴的に神話の世界に没入した信者は、神話が内包する深遠な謎を正面から見据え、その謎が解決される過程を体験する。その体験は強烈で、ときには人生を変えることもある。ここで、儀式のリズムと内容は、どちらも非常に重要だ。儀式のリズムが、参加者たちの脳を神経学的に共鳴させられなくなったり、自律神経系や感情に適当な反応を誘発させられなくなったりしたとき、あるいは、儀式のテーマや象徴が新鮮味を失ったり、文化との接点を失ったりしたときには、儀式のスピリチュアルな意味は失われてしまう。
(『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンスアンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース:茂木健一郎訳)

科学と宗教脳科学認知科学脳神経科学
 もっと一般的に言えば、私たちは、自分の好む結論と自分が嫌う結論とに別々の評価基準を用いがちだということである。自分が信じたいと欲している仮説に対しては、仮説に反しない事例を捜してみるだけである。これは、多くの情報が曖昧で多義的な性質を持っていることを考えれば、比較的達成されやすい基準である。これに対し、信じたくない仮説に対しては、そうした忌まわしい結論にどうしてもならざるをえないというような証拠を捜すことになる。これは、ずっと達成が困難な基準である。言い替えれば、信じたい仮説については「この仮説を信じても良いか」と自問するのに対し、信じたくない仮説については「この仮説を信じなければならないか」と自問しているのである。こうした二つの質問に肯定的に答えるために必要な証拠は、まったく違ったものである。それでも、私たちは往々にしてこうしたやり方で質問を形作り、客観的な基準で判断を下しているつもりのまま、自分が信じたいことがらを正しいと信じることにまんまと成功しているのである。(『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるかトーマス・ギロビッチ:守一雄、守秀子訳)

認知科学科学と宗教
 意識の内容は、人がそれを経験する前に、すでに処理され、削減され、コンテクストの中に置かれている。意識的経験は深さを持っている。すでにコンテクストの中に置かれている、たくさんの情報が処理ずみだが、その情報が私たちに示されることはない。意識的自覚が起こる前に、膨大な量の感覚情報が捨てられる。そして、その捨てられた情報は示されない。だが、経験そのものは、この捨てられた情報に基づいている。
 私たちは感覚を経験するが、その感覚が解釈され、処理されたものだということは経験しない。物事を経験するときに、頭の中でなされている膨大な量の仕事は経験しない。私たちは感覚を、物の表層をじかに感知したものとして体験するが、ほんとうは感覚とは、体験された感覚データに深さを与える処理がなされた結果なのだ。意識は深さだが、表層として体験される。
(『ユーザーイリュージョン 意識という幻想トール・ノーレットランダーシュ:柴田裕之訳)

認知科学