例えば、小松の車の中での二人のやりとりを録音したものもあった。島田さんはそれを聞いたことがあった。すさまじいものだったという。泣きながら別れて下さいと哀願する詩織さんに、小松は大声でわめいたり怒鳴ったり、そして時には大笑いまでしながらこう言ったのだ。
「ふざけんな、絶対別れない、お前に天罰が下るんだ」
「お前の家を一家崩壊まで追い込んでやる。家族を地獄に落としてやる」
「お前の親父はリストラだ。お前は風俗で働くんだ」
 このテープを聞いても上尾署のその刑事は「これは今回の件とは関係ないね」と聞く耳を持たない。詩織さんと両親は、二日間一生懸命事情を説明したが、結局「事件にするのは難しい」で済まされてしまった。
 テープは警察で一応預かるというが、何かをしてくれるとは到底思えなかった。詩織さん達は、警察に失望して上尾署を後にした。
(『桶川ストーカー殺人事件 遺言清水潔
 グレン・グールド(カナダ)も、その集中力の高さにおいては、リヒターに劣らなかった。しかしその演奏は、ドイツの伝統から出たリヒターよりもはるかに自由で、個性的なものであった。その目のさめるようなバッハに接すると、この演奏がかつて賛否両論の対象であったことが、不思議にさえ思えてくる。結局、拒絶をひき起こすだけのインパクトをもっていたからこそ、グールドの演奏は死後に生き残り、日々輝きを増しつつあるのだろう。
 グールドがバッハのポリフォニーに運動をもちこんだことは、第一章で述べた。彼がポリフォニーの各声部を生き物のように弾き分ける能力は信じられないほどだが、彼はそうした能力によってフーガを、嬉々とした競争のように躍動させる。一方、これに先立つプレリュードでは、表現の多様性が思い切り拡大される。あるときはゆったりとした瞑想に沈み、あるときは踊りのように快活に、またあるときは……。
 このようにグールドは、バッハの音楽に潜在する本質をしっかりとふまえながら、それまで誰も思いつかなかったほど自由に、バッハを演奏した。彼は現代ピアノを用いているし、その奏法も、バッハ時代そのままというわけではない。だが、グールドの自由さは、その自由さそれ自体が、バッハの演奏にもっとも大切でありながらいつしか見失われていたものの発見であった。
(『J・S・バッハ礒山雅
 学習者が初めて壁を叩く300ボルトになる前に実験者の命令に服従するのを拒否した被験者はいなかった。300ボルトといえば、「非常に強いショック」と書かれたスイッチ群を通り過ぎて、「強烈なショック」のレベルに入っていたのであるが。リモート条件の40人の被験者のうち、5人は315ボルト以上に進むのを拒否した。最終の450ボルトになる前に実験者の命令に逆らったのは14人である。しかし、40人中の26人という65パーセントにものぼる大多数が、完全に服従して、「危険:激しいショック」のゾーンを越えて、不気味な「XXX」と書かれたレベルまで続けてしまったのである。
 人間は権威に服従する傾向が深く植えつけられているということだけならば、なにもミルグラムが改めて言うまでもないことである。しかし、この実験が明らかにしたのは、その傾向が驚くほど強烈であること、そしてある人の意思に反して、その人を傷つけるのは間違っているという、私たちが子どものころから教えられてきた道徳の原理よりもその傾向の方が優先されているということであった。
(『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産トーマス・ブラス
 これは複雑な社会での危険なほど典型的な状況を示すものと言える。邪悪な行動の連鎖の中間段階でしかなく、行動の最終的な帰結から遠く離れていれば、責任を無視するのは簡単になる。アイヒマンですら、強制収容所を視察したときには気分が悪くなったけれど、でも実際に大量殺人に参加するにあたり、かれは机に向かって書類をやりとりすればいいだけだった。同時に、収容所でチクロンBを投入した人物は、単に命令に従っているだけだというのを根拠に、自分自身の行動を正当化できた。したがってここには、人間行動総体の断片化がある。邪悪な行動を決断してその帰結に直面しなければならない一人の人物というのがいない。行動の全責任を負う人物が消え去っている。これこそ現代社会で、社会的に組織化された悪にいちばんありがちな特徴かもしれない。(『服従の心理スタンレー・ミルグラム:山形浩生訳)
「たいていの人は、借金しなければ利子を支払う必要はないと思っています。しかし、私たちの支払うすべての物価に利子部分が含まれているのです。商品やサービスの提供者は、機械や建物を調達するために銀行に支払いをしなければならないわけで、銀行への支払い部分が物価に含まれているのです。あるいは、投入した自分の資本を、銀行やその他のところに投資した場合に得られたであろう利子が価格に上乗せされます。
 例えば、いまのドイツでなら、1戸あたり1万8000から2万5000マルクの利子を支払っています。だから、もし利子をやめて別の有効な流通メカニズムを採用することができたら、その流通促進のために新たな負担が生じたとしても、たいていの人たちは所得が2倍になります。あるいは、現在の生活水準を維持するのに、もっと少なく働けばよくなります」(マルグリッド・ケネディ) 『エンデの遺言 根源からお金を問うこと河邑厚徳、グループ現代

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「このところのイスラエルのやり方には、もう我慢ができません。女も子どもも構わず殺します。ルールがありません」
 検問所で迂回しようとして殺された妊婦さんの夫の話はここでも出ました。
「2日前は、なんの理由もなく男の子を撃ち殺しました。しかもチェックをすませ、通行を許可した後に、背後から撃ったのです。
 ラマラでは、病院が攻撃されました。
 シャロンは『殺せるだけ殺せ』と発表しています。信じられません。これは一国の政策なのです。なぜこの国ではこのようなことが行われるのでしょうか?
 また、封鎖のために農業が陥っている問題についてもお伝えしなければなりません。まず農業のための肥料や飼料が届きません。また作物を持ち出すことができず、産業として成り立ちません。
 この街の多くの市民は、オリーブを原料としたオイルや石鹸の製造と販売で生計を立てていますが、私たちはオリーブの収穫に行くことができませんでした。
 イスラエル軍によって畑へ出るのを阻まれたり、畑を荒らされたりしたのです。しかも大切なオリーブの木を次々戦車でなぎ倒していくのです。もちろん他の収穫物についても同じです。
 それから教育機関が動きません。学校への攻撃も容赦がありません。
 もっとも深刻な状況に追いやられているのは市民の生活そのもの、子どもの命、そして私たちの未来です。
 けれども本当に残念なことは、もっとも残念なことは、世界の国々が、特にアラブ諸国がただこの状況を見ているだけであるということです。見て見ぬふりをしているのかもしれません。
 無反応であるということは、無関心であるということは、無視され続けるということは、軍事攻撃を受けるということと同じように私たちを苦しめ続けます。
 ですから、あなたがたの訪問は、私たちを前向きにさせてくれ、少しだけ楽観的な気持ちにさせてくれます」
 私は、話し続ける彼の目に吸い込まれそうになっていきました。この瞬間に、私は、今自分がここにいる意味と、大変な責任を負っていることを自覚しました。(※発言者はナブルスの知事と思われる)
(『「パレスチナが見たい」森沢典子
 本書はホロコースト産業を分析し、告発するためのものである。以下の各章では、ザ・ホロコーストがナチ・ホロコーストのイデオロギー的表現であることを論証していこうと思う。大半のイデオロギーと同じようにこれも、わずかとはいえ、現実とのつながりを有している。ザ・ホロコーストは、各個人による恣意的なものではなく、内的に首尾一貫した構造物である。その中心教義は、重大な政治的、階級的利益を支えている。実際に、ザ・ホロコーストがイデオロギー兵器として必要不可欠であることは、すでに証明済みだ。これを利用することで、世界でもっとも強力な軍事国家の一つが、その恐るべき人権蹂躙の歴史にもかかわらず「犠牲者」国家の役どころを手に入れているし、合衆国でもっとも成功した民族グループが同様に「犠牲者」としての地位を獲得している。
 どちらも、どのように正当化してみたところで上辺だけの犠牲者面(づら)にすぎないのだが、この犠牲者面は途方もない配当を生みだしている。その最たるものが、批判に対する免疫性だ。しかも、この免疫性を享受している者はご多聞に漏れず、道徳的腐敗を免れていないと言ってよい。この点から見て、エリ・ヴィーゼルがザ・ホロコーストの公式通訳者として活動していることは偶然ではない。彼の地位がその人道的活動や文学的才能によって得られたものでないことは明白だ。ヴィーゼルが指導的役割を演じていられるのは、むしろ、彼がザ・ホロコーストの教義を誤りなく言語化しているからであり、そのことによってザ・ホロコーストの基礎となる利益を得ているからである。
(『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたちノーマン・G・フィンケルスタイン:立木勝訳)