こういうことを見きわめる用意がありますか? この問題に入りこんでゆきたいと思いますか? ほんとうですか? そうだとすれば、むしろ私にとっては驚きです。なぜならあなたがたは、心理学者や司祭や指導者たちからいつでも教示され、知らされ、何をするのかを告げられてきているからです。常に助けを求め、助けてもらえる新しい方法を見つけているからです。ですからわれわれは、他人の奴隷になったのです。探し求める自由などいっさいなく、心理的に完全に自立することもないのです。(クリシュナムルティ)『クリシュナムルティ・開いた扉メアリー・ルティエンス:高橋重敏訳
「常に問い、深く疑え――ことに自分自身の動機を」。(ドリス・プラットがバイロン・カッセルベリーに宛てた手紙)『クリシュナムルティ・実践の時代メアリー・ルティエンス:高橋重敏訳

クリシュナムルティ
真理〉は途なき大地であり、いかなる方途、いかなる宗教、いかなる宗派によっても、近づくことのできないものなのです。(『クリシュナムルティ・目覚めの時代メアリー・ルティエンス:高橋重敏訳)

クリシュナムルティ
 面白いことにこの孤独という英語 alone はすべてひとつ all one という意味のラテン語、ギリシャ語から来ているのです。外形は孤独であっても、内形である心は全体とひとつにつながっているということで、これは孤立とは違います。(『クリシュナムルティ 人と教え』クリシュナムルティ・センター編)

クリシュナムルティ
 ある命題を「知」というならば、世界に起こるすべての場合において、それが真でなくてはならない。「電話番号を教えてくれた人は私が一番信頼している人だから、繋がらなくても正しいはずだ」と主張したところで、何の説得力も持たない。要するに「信じること」と「知ること」とは違うのである。ある事件の犯人を、あらゆる状況証拠から、犯人であると信じるに足る要件が整っていたとしても、もしその人が真犯人でなかったら、犯人を知っているとはいえないのと同様だ。命題が真でなければ、「知っている」とはいえないのである。正しいと「信じている」にすぎない。(『洗脳原論苫米地英人
 考察すること一般を、俗に「分析する」といったり(政治分析、経済分析、現状分析など)、理解すること一般を「分かる」といったりするのであるが、ただ、やみくもに分析したり分解したりすることで、つまりバラバラにすることで「わかった」ということにはならない。分析といっても、分析することで原理に到達し、そこから再構成してみてはじめて、「わかった」ということになるのである。そしてこの基本線は、アリストテレスからデカルトまで、古代哲学から現代科学まで貫かれているといってよいであろう。(『「分ける」こと「わかる」こと坂本賢三
 息子のパートナーを私は絶対に嫁視しない。嫁という言葉も内実も私で断(た)ち斬(き)らねばならないと思う。息子の仲立ちで出会った大切な女友だちであると同時に、ありのままのすべて、存在そのものが愛(いと)しいわが子が3人になっただけ。つまり、彼女に教え覚えてもらうようなこちらの「文化」はなに一つ持たない。(『寝たきり婆あ猛語録門野晴子