密教の場合は、シンボル儀礼がとても重視される。その理由は、密教では、仏教の最高の真理は、シンボルでならば表現できる可能性がある、とみなされているからだ。儀礼は、ふつうの手段では表現できない重要なことがらを、シンボルをもちいたり、シンボリックな動作によって表現される行為とみなされるので、重視される。そして、マンダラこそ、シンボルのきわみなのである。(『マンダラとは何か』正木晃)
 名もない人々の歴史こそ、本当の歴史である。
 日本史の勉強をはじめたばかりの頃、私が先学の仕事から鮮烈に受け取ったメッセージはこのことだった。最近の歴史書がとかく大文字でばかり書かれるのを見るにつけ、私はいいものを先学から頂戴したと思っている。不透明なこんな時代には、身近なもの、小さなものから社会や歴史を考えることができる人が一人でも多くなってほしい。本書の執筆動機を心底に探せば、そういうところに行き着くような気がする。
(『戦国仏教 中世社会と日蓮宗』湯浅治久)
 本門宗要抄は、清澄に帰った聖人は建長5年4月22日より17日間禅定に入り、成満して28日、朝日に向かって南無妙法蓮華経と唱えたという。(『日蓮とその弟子』宮崎英修)

日蓮
 ちなみに、コブラを意味する「ナーガ」ということばは、漢訳仏典ではふつう「龍」と訳されている。(『日本奇僧伝宮元啓一
 1899年4月23日、日曜の午後、2000を超すジョージア州の白人が団体列車を仕立ててニューマンの町にくりこんだ。同じジョージアの黒人、サム・ホーズの処刑が目当てだった。市民総出の見物で、親たちは学校に文書で子供の欠席許可を求めた。人びとは惜しくもこの山場を見逃した親類や知人に絵葉書を送り、競って記念写真を撮った。
 またあるとき、同じような騒ぎの巻きぞえで夫を亡くした黒人女性、メアリー・ターナーは8カ月の身重だったが、責任の所在を糺して加害者の懲罰を求める決心で現場に出向いた。群衆は思い知らせんものといきり立ち、メアリーの足を括って木から逆さ吊りにした。メアリーは生きながら腹を裂かれ、地べたに落ちた胎児の頭を群衆の一人が踏みつぶした。これでもかとばかり、八方から銃弾を浴びて、メアリーは蜂の巣となって息絶えた。
 残酷場面を眼前に見て笑いながら写真におさまった子供たちは、残る生涯、良心の呵責に悩んだろうか。それとも、このときのことを思い出しては郷愁とともに密かな満足を味わっただろうか。
 心優しく親切な行為を人はめったに忘れない、とは昔からよく言われることだが、癒やしがたい心の傷もまた同じである。ユダヤ人はいつになったらホロコーストの悪夢から解放されるだろうか。
 道徳家の建前では、良心の声は聞こえなくても、つねづね残虐や不正を批判している。だが、その実、犠牲者がこっそり葬られるかぎり、良心は残虐と不正を歓迎する。
(『わらの犬 地球に君臨する人間』ジョン・グレイ:池央耿訳)
 まず、これを考えてもらいたい。そもそも「オズの魔法使い」というタイトルの「オズ」とは何なのか? 英語では「Oz」になる。この字に見覚えがないだろうか。金の重さを量るオンスという単位を、英語でこのように表記するのである。これで話が見えてきただろう。そう「オズの魔法使い」とは、金融資本家の利益のために策謀する政治家を指している。その原作は、1900年にフランク・バウムというジャーナリストが書いた小説である。バウムはバイメタリズム運動の支持者だった。それで当時の政治情勢を盛り込んだ寓話として「オズの魔法使い」を書いたのである。(『世界デフレは三度来る』竹森俊平)
 利潤を生むのは自然の豊穣ではなくて、労働である。カトリックにおいては、労働原罪をもつ人間に与えられた苦役であり、それゆえ「富は天国に積め」と教えられる。これに対して、プロテスタントにあっては、労働は人間のよろこびであり、これによって得られた富や利潤は労働の正当な対価として人間の手に入る。近代の資本主義化がラテン・ヨーロッパのカトリック圏ではなく、北フランスやイギリス、そして北ドイツのプロテスタント(カルビン派ルター派イギリス国教会)において成立したのは、このためである。(『砂の文明・石の文明・泥の文明松本健一

キリスト教