ディオニュシオスが死の床にあるとき、臣下たちが彼に、以前の借金の返済を求めた。すべて貨幣による借金だった。するとディオニュシオスは、一枚のドラクマ硬貨を、これは2ドラクマであると刻印しなおすことで、硬貨の価値を半分にした。この細工によって、彼は自分の手元にあるすべての貨幣の額面価値を取り戻し、残り半分で借金を支払うことができた。(『紙の約束 マネー、債務、新世界秩序』フィリップ・コガン:松本剛史訳)

マネー
 古代ウパニシャッドには、ヴェーダの祭式主義がなお名残(なご)りをとどめているが、はっきりとその表面に浮かび出てくるのは、祭式主義を脱皮して、宇宙の根源や人間の本質を主知主義的に究めようとする態度である。ウパニシャッドを転回点として、インド思想史上に新しい時代が開けてくる。表現はまだ理論的ではなく、神話的・直観的であるが、後代に学説化されるさまざまな思想の芽生えがそこには見られ、そして、宇宙原理ブラフマンと個体原理アートマンとの合一説に至って、哲学的な深まりは極致に達する。インド人の人生観に強い影響力をもつ(ごう)・輪廻(りんね)の思想もここにはじめて確立される。(「インド思想の潮流」長尾雅人、服部正明)
(『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典長尾雅人〈ながお・がじん〉責任編集)

バラモンヒンドゥー教
情報の環(わ)が、生命の単位となる」(生物物理学者ヴェルナー・レーヴェンシュタイン)
(『インフォメーション 情報技術の人類史ジェイムズ・グリック楡井浩一訳)
 もし暗殺が決行され、木村が東條とともに死んでも、牛島も間違いなく逮捕されて死刑になっていただろう。だから牛島は木村に仕事を押しつけたわけではない。決行するには若い木村の方が成功率が高くなると考えていたのだ。天覧試合時にも木村だけにきつい思いをさせることは絶対になかった牛島だ。全国民を守るため弟子の木村もろとも玉砕の覚悟だったのだ。
 勝負師牛島は、国の大事に、絶対に成功させなければならない計画に、自身が最も信頼する超高性能の“最終兵器”木村政彦を選んだのだ。もし内閣総辞職があと数日遅れれば、木村が東條暗殺を決行し、人間離れした身体能力と精神力で間違いなくそれを成功させたであろう。日本史は大きく塗り替っていたに違いない。
(『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか増田俊也
 アジアの信仰では、謙遜、慈善、誠実に力点が置かれ、それは徳を実現するのに「障壁」となる罪をかわし、克服するために必要な道具であると教えられる。たとえばブッダは、貪欲や憎悪、惑いといったものを正しい生き方をする上での障害物であるととれ、「三つの毒」と呼んだ。
 一方アブラハムの息子たちは、罪を媒介物ととらえた。もっと限定的にいえば、ヘンリー・フェアリーが言うところの「構造としての罪」はキリスト教だけの考え方で、キリスト教ほど罪を実体化し、潤色した宗教は世界ではほかに例がない。

(『強欲の宗教史』フィリス・A・ティックル:屋代通子訳)
 簡単に言うと、一見したところ人間は、おのれの存在を創り出し、おのれ自身を基礎づける自由な存在のように見えるが、他方では制約や限定に従っているもののようにも見える。それらの全体が、人間が生まれ、地上に存在する者となって以来、彼に対して与えられているものである。私はそれを人間の条件と呼ぶ。彼の自由、あるいは自分は自由であるという感情・錯覚・不安もまた同様に人間の条件の部分になっている。なぜならこのような条件においても彼は真の人間だからである。そして私は、人間が人間の条件を引き受けなくてはならない必然性に対して、儀礼がどのような関係を持つことができるかを探求したいと考える。その仕事は、人間の条件となっているあらゆるものから、できる限り解放されるように努めること、あるいはその反対に、そこに閉じこもることにおいて成立することができよう。(『儀礼 タブー・呪術・聖なるものJ・カズヌーヴ:宇波彰〈うなみ・あきら〉訳)
 釈尊の宗教の中に潜在、あるいは顕在する秘密行の要素は、従来決して看過されていただけではない。
『中阿含』『超阿含』並びに『四分律』等によると、仏は最初、弟子たちに対し、世俗の呪術密法を行なうことを厳禁し、もしそれを犯すものは波逸提を犯すと説き、さらにパーリ経典の小品小事篇第五には、この世俗の密法をもって「畜生の学」とまで弾訶せられた事実が早くから学者の指摘するところとなっている(拇尾祥雲『秘密仏教史』、昭和8年、高野山大学出版部、6頁)。
 しかし、この禁は【年と共に】ゆるみ、かの羅什訳『十誦律』第四十六(大正蔵、二十三巻、337頁以下)等に説くごとく、仏道修行の妨害になるような悪呪密法はもちろんこれを禁じたけれども、治毒呪とか、治歯呪とかいうごとき、一身を守護し、みずから慰安を得るがごとき善呪は、それを誦持するも妨げなしとして、ついにそれを黙許するにいたっている(同前、7頁)。このような理解のあと、近時、ようやく学者の注目――奈良康明氏等の――を浴びるにようなった『防護呪』の出現に触れてゆく(同前)。

(『密教成立論 阿含経典と密教金岡秀友

密教