指揮科の学生は、楽譜の印刷の手配から譜面台の準備まで「カバン持ち」のように斎藤と行動をともにし、「丁稚小僧」のように厳しく教えこまれた。小澤(征爾)の場合、指揮棒でたたかれたり、分厚いオーケストラの譜面を投げつけられたりするのが日常化していた。斎藤の言葉に小澤が思わず、拳を振り上げようとしたことすらあった。その場にいた生徒たちは、斎藤が殴られると思った。しかし、小澤は顔をひきつらせて腕を下ろした。ばらばらになった楽譜を、小澤は家に持ち帰ってはセロテープではりつけていた。小澤は一時は親戚だからこんなに厳しくされるのかと思ったことさえあった。斎藤は親戚であろうとなかろうと手心を加えることはなかった。
 小澤はオーケストラの雑用で疲れきり、家に帰っても玄関で靴を脱がずに座り込んでいることもあった。自分の指揮の勉強が十分できないまま斎藤のレッスンに行くと、不勉強を指摘されて怒鳴られもした。そんなある日、小澤は家に帰るなり、言葉も発せずに拳で本箱のガラスをめちゃくちゃに壊してしまった。小澤の右手はガラスの破片が刺さり、血だらけになっていた。
 高校時代の小澤は、虚弱体質ぎみで十二指腸潰瘍を患ったりしていた。もちろん痩せていた。そして、この痩せているのは、指揮科の生徒全員の特徴でもあった。秋山和慶は語る。
「月月火水木金金だと先生は言ってました。音楽を勉強するのに休みがあるのか、消防士は休むか、とそんな具合。昼飯すら食べる時間のないくらい、いろいろ雑用があったのです」
(『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯中丸美繪

斎藤秀雄