もっと一般的に言えば、私たちは、自分の好む結論と自分が嫌う結論とに別々の評価基準を用いがちだということである。自分が信じたいと欲している仮説に対しては、仮説に反しない事例を捜してみるだけである。これは、多くの情報が曖昧で多義的な性質を持っていることを考えれば、比較的達成されやすい基準である。これに対し、信じたくない仮説に対しては、そうした忌まわしい結論にどうしてもならざるをえないというような証拠を捜すことになる。これは、ずっと達成が困難な基準である。言い替えれば、信じたい仮説については「この仮説を信じても良いか」と自問するのに対し、信じたくない仮説については「この仮説を信じなければならないか」と自問しているのである。こうした二つの質問に肯定的に答えるために必要な証拠は、まったく違ったものである。それでも、私たちは往々にしてこうしたやり方で質問を形作り、客観的な基準で判断を下しているつもりのまま、自分が信じたいことがらを正しいと信じることにまんまと成功しているのである。(『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるかトーマス・ギロビッチ:守一雄、守秀子訳)

認知科学科学と宗教