1899年4月23日、日曜の午後、2000を超すジョージア州の白人が団体列車を仕立ててニューマンの町にくりこんだ。同じジョージアの黒人、サム・ホーズの処刑が目当てだった。市民総出の見物で、親たちは学校に文書で子供の欠席許可を求めた。人びとは惜しくもこの山場を見逃した親類や知人に絵葉書を送り、競って記念写真を撮った。
 またあるとき、同じような騒ぎの巻きぞえで夫を亡くした黒人女性、メアリー・ターナーは8カ月の身重だったが、責任の所在を糺して加害者の懲罰を求める決心で現場に出向いた。群衆は思い知らせんものといきり立ち、メアリーの足を括って木から逆さ吊りにした。メアリーは生きながら腹を裂かれ、地べたに落ちた胎児の頭を群衆の一人が踏みつぶした。これでもかとばかり、八方から銃弾を浴びて、メアリーは蜂の巣となって息絶えた。
 残酷場面を眼前に見て笑いながら写真におさまった子供たちは、残る生涯、良心の呵責に悩んだろうか。それとも、このときのことを思い出しては郷愁とともに密かな満足を味わっただろうか。
 心優しく親切な行為を人はめったに忘れない、とは昔からよく言われることだが、癒やしがたい心の傷もまた同じである。ユダヤ人はいつになったらホロコーストの悪夢から解放されるだろうか。
 道徳家の建前では、良心の声は聞こえなくても、つねづね残虐や不正を批判している。だが、その実、犠牲者がこっそり葬られるかぎり、良心は残虐と不正を歓迎する。
(『わらの犬 地球に君臨する人間』ジョン・グレイ:池央耿訳)